夜明けに
一日中飲んでベロンベロンに酔っている彼と、彼の友達と何人かで軽のバンで送ってもらう。
その日ゆっくり彼と話すのは初めてだった。
耳元で囁く。
彼は優しく私の手を握り、身体を寄せて足を私の太股に絡ませてくる。
耳元で囁く。
彼は私の足をさすり、指と指を絡ませてぎゅっと握る。
私の声が聞こえないようで、身体を更に近づけて声を聞こうとする。
私は彼の耳朶を少しだけ優しく舐めてあげる。
そしてもう一度ゆっくり囁く。
サヨナラ
だって彼女を作ったのは彼の方なのだから。
私は永遠の片思い。何度目かの失恋。
夜が明ける。もうすぐ夜が明ける。
逃避行憧れという名の生活疲れ
何もかも捨ててどこか遠くに行く。誰も私を知らない場所で生きていく。彼と二人だけで肩寄せ合って静かに優しい時間を生きていく。
あーなんて素敵!
私は殆ど米粒を食べないし家でご飯を食べない。朝ごはんは全く食べないし夜ごはんもほとんど食べない。仕事場でもお茶が主食で、お昼にヨーグルトや菓子パンを食べて、帰りに御煎餅を齧る。それなのに家では両親にご飯やら弁当やらおやつやらを用意してあげなくてはならず、捨てても捨てても捨てても捨ててもプラスチックのゴミが山のように出る。生ゴミもどんなに厳重に縛ってもすぐに腐臭を出し始める。そのゴミの山を見ていると生活自体が物凄く嫌になってくる。
こんなにゴミを出してこんなに食べて生きていかなければならないのかと思うとうんざりしてくる。
恋い焦がれるあの人と一緒ならこんな気持ちにならないのかしら。あの人と一緒なら楽しくご飯を食べられるようになるのかしら。
あの人の何でも美味しそうに食べる姿が大好きだから彼の為だけにお料理して彼の為だけに綺麗でいて彼を喜ばせることだけを考えて生きていく。美しい専業主婦ではなく専業娼婦になる!!よしそれを目標に料理上手と床上手を目指そ。
逃避行、てなにから逃げるのかわからない逃避行など有り得ないのだけどね。逃げる必要がないのに逃げ切れるほど強ければ、逃げずに生きていけるはずだから。
嫁姑
姑は可愛くて若くてお洒落で、無口な優しい人だった。ネットワークビジネスで化粧品を買っていて、売ると儲かる?位の位置にいたけれど、それとて宣伝したり頼んで広がったわけではなく、友だちが綺麗になった姑の肌を羨ましがって好んで買ってくれたからだという。差し出がましくなくて誠実そうなのだ。
私の母は田舎者でお洒落でもないし化粧ひとつしない素朴な人間だった。
義理の父が亡くなった時、私はその闘病生活やら義理父の人柄やら思ってワンワン泣いた。短い付き合いだったけれど真面目な優しい人で、娘が出来たと喜んでくれていたらしく、私たち夫婦が行くと必ず美味しいものを食べに連れて行ってご馳走してくれた。
病院では家に帰りたい帰りたいと駄々をこねていて、こんなに早く亡くなるなら親孝行したかったと思った。
お葬式でお姑さんに綺麗に着付けてもらった喪服を着て私は最後のお別れでワンワン泣いていた。
母が私に言った。
あのとき、
かなたの涙が棺桶にポタリと落ちた。
それをお義母さんはハンカチで拭き取った。
母の観察力の鋭さは我が家では定評があり、ズバリ言うB型女なのだが、私は母から聞かされた、姑の仕草にぞっとした。
娘の落とした涙を汚いもののようにハンカチで拭き取る、悲しみのさなかに。人情家の母には、違和感を覚える行為だっただろう。
暫くして婚家との縁が薄くなってから初めて私に語ったワンシーンだった。
半さん
この夏?考えたことの一つに、どうしたら優しく穏やかな人間になれるかということでした。私自身の体調のせいもあり、今すぐこのまま皆とお別れが来たら?という想像を何度となくしたせいもあり。もちろん傷つけて取り返しのつかない関係も作ってしまっているし、私もどうしても心穏やかに思い出せない出来事もあります。
でもこれから長く生きていけたとしたら、無駄に周りを傷つけるようなことはしたくないと思うようになりました。若いときはぶつかって壊して再建したものをまた壊して、それが正しい生き方だと思っていたこともありました。
これからは積極的に誰かを助けてあげられる、そのために自分の力や才能を消費していけたらいいなと思います。
そしてそのお手本としてとっても俗なのですが、テラスハウスなる番組の出演者の男性を発見しました。
素敵すぎる!!半さんという若手の建築家志望の人で、この人の言葉とか困難にぶつかって決して焦らず苛つかず、その人を助けてあげられる姿勢が素晴らしいです。テラスハウスとか、筋書きのないドラマという触れ込みですが眉唾ものと思いはしますけど、この人は本当に優しい人なのだなとわかります。因みに私は絶対的悪役としての夏実さんも結構好きで、夏実さんが卒業してからは何も刺激が無くなりました。
テレビ番組はほとんど見ないのですが、一部夢中になりました。
帽子屋さんを開業しようとしてピンチに陥っている女性にかける言葉が秀逸!
何か大変なことが起きたときは、そこから先が絶対面白くなるから!
こんなステキな励ましをして、自分たちも徹夜で開店の準備を手伝ってあげるのですけど。
困難を面白がる。これはこの秋の私のテーマです。
無痛
久坂部羊著『無痛』を読んだ。作者は大阪大学医学部卒業の現役の医師でもある。「無痛」の男が出てくる。「無痛」とはどういうことなのか。
痛いのは誰だって嫌である。私は痛みには強い方だと思うが、それでもすぐに鎮痛剤を服用してしまう。
この世から「痛み」がなくなったら、それは素晴らしいことではないか、と考えた登場人物の医師(大きな個人病院の院長)は、「無痛」の男を治療という名の実験材料にしてしまう。研究の動機は純粋に医師としての良心であっただろう。
患者の「痛み」を取り除きたいと考えるのは医療従事者ならずとも共感するところである。
ところが、「無痛」ということは考えてみると恐ろしい現象なのである。
「痛み」を感じなかったら、熱い物に触っても対象物が危険だと察知することができない。誰でも「あつっ」と驚いてヤカンから手を引っ込めた経験はあるだろう。あれが熱い、痛いという感覚がなければ大変な火傷を負ってしまう。「痛み」の感覚が理解できなかったら、危険を回避することができず、生命を脅かされるような事態を招くということだ。
感じたことのない感覚には想像力は及ばない。
これは随分とオソロシイことではないか。
「痛み」は辛いものだけれど、それを知らなければ相手の痛みを想像することも、自分自身の生命を守ることもできない。
逆に言えば、少しでも「痛み」を感じることができるならば、経験したことのない甚大な、あるいは別の種類の「痛み」、他人の「痛み」も想像できるということである。
生命とはなんと不思議なもの、イキモノとはなんと哀しくいとおしいものだろう。
私もこの「痛み」を抱いて生きていこうと思う。
夏の思い出
カナカナカナカナカナ。
蟬の声の中、夕暮れのあぜ道を一輪車に乗せてもらって田んぼに向かう。
一輪の手押し車を押すのは父だ。いわゆる三ちゃん農家(死語?)のじいちゃんは亡くなっていたが、父はサラリーマン、母と祖母が農業をしていた。
田植えや稲刈りは人を頼んで農作業をするが、父も仕事から帰って田んぼの水具合や草を見に行くことはあった。そんなとき、妹と二人付いて行くのだった。
その風景に会話はない。父は幼い娘二人に何を話しかけていたのだろう。
もしかしたら私と妹だけでくすくす笑い合っていただけなのかもしれない。
幸福な夏の夕暮れ。